リオ五輪の閉会式で東京は女子高校生を出すべきだったのか

リオ五輪閉会式で流れた東京PR映像で、冒頭に制服の女子高生を登場させたことが論議を呼んでいます。全体としてはとてもスタイリッシュに仕上がって評判がよかっただけに、ちょっともったいなかったですね。

 
何度も繰り返し見ましたが、思うに冒頭の部分は後からアイデアが付け加わったのではないかな、、(妄想です。ごめんなさい)。
 
あの映像は大きく5つのパートに分かれています。そして一見ストーリーがつながっているように見えますが、実際は個々のつくりはかなり独立的になっています。
 
1.渋谷のスクランブル交差点&女子高生
2.東京の夜景をバックにしたスポーツ選手の競演
3.北島選手、高橋選手、村田選手とつなぐ赤いボールのリレー
4.リムジンに乗っている安倍首相
5.土管を置くドラえもんとそこに入るマリオ
 
このうち、1と4は省略可能。赤いボールをマリオが受け取ってリオに運ぶというストーリーだけで成り立ちます。多分原案はここが中心だったのでは。その中で、キャラクターのマリオだけで完結させるか、誰かをマリオに扮してもらうか、という議論があったのではないかと想像します。
 
安倍首相をマリオにする案は森会長が提案したそうですが、この決定は結構ぎりぎりだったのではないでしょうか。行政の長が簡単に変わってしまう経験を東京都民はつい先日経験していますしね。7/10の参議院選開票以降だった可能性も、、、さすがにそれはないか。
 
そして安倍首相がマリオになるという決定の後に、「安倍首相は多忙」→「リオに間に合わない」→「リオまでまっすぐ穴を掘るのは、時間がなかったから」という後付けのストーリーになったのではないでしょうか。(妄想です)
 
そして、安倍首相がリムジンの中で腕時計を見て、リオまで間に合わない、、、まで構成したところで、今東京が9:30だということをあらかじめ想起させておかないと視聴者にわかりにくいのではないか、という判断から冒頭の渋谷が差し込まれたのではないでしょうか。明らかに渋谷のシーンはその次の映像とつながっていないですし。
 
個人的には、今回のフェミニズムの観点からの問題提起はそれはそうだなと思う点があり、避けられるなら避けたほうがよかったと感じています。
 
ただ、無自覚の罪を横に置いて言うと、上記のような理由で冒頭のシーンはパパッと決めて作り込んだのではないかな、とそんなふうに感じます(繰り返しになりますが妄想です)。
 
もし女子高校生を登場させることにもっと自覚的だったら、あの制服・あの女の子にはしなかったのではないかと。あのシーンを見た多くの人は、制服よりも女の子のエキゾチックな顔立ちに惹かれたはずで(土橋ココ選手という体操の若きホープだそう)、制服を着ていたというのは言われて気づいた人もいるのではないでしょうか。僕はそうでした。
 
そして、それくらい高校生の制服が日本の日常の中に溶けこんでいるのも事実です。僕は制服は嫌いですけど、その事実自体は否定できませんし、それをあえて使わないのも変というのも、一つのまっとうな意見だと思います。
 
冒頭のシーンは、日常からの跳躍、という以上のメッセージはなく、それを内外にわかりやすく伝えるために渋谷のスクランブル交差点と制服姿の女子高生を使った、とまあそれくらいの感じだったのではないかな。
 
その背後に隠れているものにもっと自覚的であるべきという指摘はもっともだと思います。その上で言うと、このレベルの作品に関わるような先端クリエイターにとっては、女子高生をシンボリックに扱うような話はもう遥か昔に通り過ぎているのではと思うのです。
 
自分の知っている限りでも、90年代のブルセラ、ルーズソックスブームがあり、岡崎京子さんが鋭い感性で切り取っていき、それを安野モヨコさんたちが引き継いで。より芸術方面に行くと会田誠さんだったり、村上隆さんだったり、海外からの視点でノーダウトのグウェン ステファニーやレディガガだったり。
 
最近だとインスタグラマーのような話もあるものの、むしろ10年代に入ってからは女子高生とかカワイイみたいな話って、作り手としてはもうちょっとお腹いっぱいといった雰囲気もあったように感じます。
 
東京五輪のPR映像でも、カワイイはキティちゃんだけで。著作権の問題があったのかもしれませんが、セーラームーンが登場しなかったことは特筆すべきことだと思います。
 
あの映像をつくったクリエーターさんにとっては女子高生というのは、もはやなんのシンボルでもなかったのではないだろうか。だからこそ、避けて何の問題もなかった、、。改めてもったいなかったな、と思います。